地名の由来
高櫓城(たかやぐらじょう)
「日本城郭全集」第11巻(人物往来社版) 高櫓城の項に
「高櫓城」は、標高 320m、反辺淀の地に東より西に突き出て、北東は要害堅固で、須佐川をへだて、屏風山を望み、小矢倉、飯盛山を前に控え、昔の余土の市(よどのいち)を眼下に、 西に鬼の窟の岩畳あり、大手口は目田に開け、目田池を擁してはるかに高西、堀越の砦、丸山の支城(大呂)を迎え、須佐、乙立、古志を領し、陰陽を結ぶ戦国時代に於いては、重要な城砦であった。
城廃れて 400 年、今日尚、本丸跡、二の丸、三の丸跡も礎石は崩れていても歴然と知られる構えを残しているし、本丸跡には武人の神とて尊崇されたし宇佐八幡も祀られており、又、山上には、天王様を祀る石祠、秋葉大権現の石碑とか、山にかなでる松籟に昔日の俤を残している。

高櫓城は佐田町の北端にある峻険で、北東は絶壁、大手口は池を擁し、はるかに高西城、大呂丸山の支城が見られる。須佐、乙立、腰を領する戦国時代、出雲における重要な山城の一であった。現在、殿様墓と称する熊谷広実の墓(大手口にある墓は、広実だけではなく、広実の墓は菩提寺久光寺の近くにある。)場内鎮護の八幡宮(宇佐八幡の御分霊を祀る)大門の跡などがある。
室町期、尼子の臣亀井永綱の居城であったが、永禄 5 年(1558)毛利元就の猛攻にあって落城し(史実と相違する)山吹城主本庄常光がこの城を兼ねた。ところが常光は須佐神社の神宝を奪い、神社領を横領したりして、暴勇を振るったので、毛利氏は常光の非行をあげ、また寝返りを打たれる場合のことも考えて永禄 6 年(永禄 5 年が正しい)暗殺した。
ここに本城氏(本庄氏)一族は壊滅、代って熊谷広実が入城した。しかし、元亀元年(1570)死亡、子元実が相続したが、関ヶ原の役に敗れ、堀尾吉晴が出雲にはいるに及び廃城となった。


高櫓城の馬洗池
高櫓城の本丸(山頂)の南側には直径 3 尺あまりの浅い池がある。この池の名前は「馬洗池」とか「星の池」などと呼ばれていた。馬を洗うほどたくさんの水があることを誇示した表現だが、貴重な水源が山頂にあることでこの城が「要害」の地として優位な条件を備えていたことの証明であろう。それにしても山頂から水が湧くということはまことに不思議な現象である。


鬼の窟(おにのむくろ)
多倍神社の北方約 550m の処に「鬼の窟」がある。そこには、天井岩、千畳岩、腰のし岩、地獄穴等がある。ここは往古、鬼の棲家であった。スサノオノミコトはこの鬼を退治されたので、その残骸は、奇岩になった。


多倍神社(たべじんじゃ)
現社名 多倍神社
所在地 島根県出雲市佐田町反辺 1064
御祭神 須佐之男命
合祀 稲田姫命、足仲彦命、誉田別命、息長足姫命、湯山主命、和田津見命
社殿 大社造りの変態
末社 稲荷社:倉稲魂命(農商工の守護神)
厳島社:市杵島比売命(海運の神)
随神門:左神=豊磐門戸命、右神=奇磐戸門命
御由緒 このお宮は大変古くからあり、1300 年前にすでに「多倍社」として神社名簿や「出雲国風土記」に載っている「官社」です。古来は「須佐神社」の摂社でしたが、明治維新の際に独立しています。「棟札」には「須佐之男命が八岐大蛇を斬り倒した際の剣の御神霊を祀る。」と記されています。
伝説 本年の真裏に「首岩」という、直径約 4m もの大岩があります。「社説」には、神社の北 500m に「鬼のむくろ」(現在は目田森林公園の一部となっています) があり、ここに住む鬼共の大将を須佐之男命が退治して、その首を埋め、「首岩」で蓋をしたと記されています。この「首岩」に触れると血がつくと恐れられ、玉垣で囲って注連を張り巡らしてあります。








目田池
昔、大きな牛が死んだ。
その目に当るところは池になって「目田池(めだいけ)」といい、鼻ぐりに当たるところは「花栗(はなぐり)」腹に当たるところは「牛が原(うしがはら)」尾に当るところが 「牛尾(うしお)」(別所)であるという。








目田森林公園
所 在 地 : 島根県出雲市佐田町反辺 1141-4
営業期間 : 4 月 〜 11 月(冬期間は休園)
電話番号 : 0853-84-0805